親の判断能力低下が相続に与える実害|口座凍結と遺産分割協議無効化のリスク

「うちの親はまだ元気だから大丈夫」と思っていても、判断能力の低下は静かに、そして本人も気づかないまま進むことがあります。
そして厄介なのは、いざ相続の場面になってから「親に十分な判断能力がなかった」ことが発覚し、手続きが止まってしまうケースが少なくないという点です。財産をどう分けるかという話し合い以前に、そもそも法的な手続きそのものが進められなくなってしまうのです。
ここでは、親の判断能力が低下したときに相続の現場で具体的に何が起こるのか、その実害を整理しておきます。
銀行が「認知症」を把握すると何が起こるか|預金口座凍結の実態
金融機関は、口座の名義人に判断能力の低下が疑われる情報を得ると、本人保護の観点から口座を凍結することがあります。
窓口での対応時に受け答えがかみ合わない、家族から「認知症の診断を受けた」と申告があった、といったきっかけで凍結に至ることもあります。
凍結されると、生活費や介護費用のための引き出しはもちろん、定期預金の解約や振込といった通常の取引もできなくなります。実際に「親の入院費用を親自身の口座から支払おうとしたら、窓口で待ったをかけられた」という相談は珍しくありません。
凍結を解除するには成年後見制度(せいねんこうけんせいど。判断能力が不十分な方の財産管理や契約を法的にサポートする制度)を利用する必要があり、家庭裁判所での手続きには数か月単位の時間がかかることもあります。
遺産分割協議は「意思能力」がなければ成立しない
相続が発生した際、相続人全員で財産の分け方を話し合う「遺産分割協議(いさんぶんかつきょうぎ)」を行いますが、これは相続人自身の意思能力(いしのうりょく。物事の内容を理解し自分の意思で判断できる能力)を前提とした手続きです。
ここで想定しておきたいのは、親が「被相続人(ひそうぞくにん。財産を遺す本人)」として亡くなった後、その相続人である配偶者や子どもの中に判断能力が低下した方がいる場合の話し合いの難しさです。
相続人が認知症だと、遺産分割協議ができないって知っていましたかで詳しく解説していますが、意思能力を欠いた状態でのサインや押印は無効とされる可能性があり、協議そのものが成立しなくなってしまいます。今回のテーマである「親自身が認知症になる前の備え」は、この協議不能状態を未然に防ぐという意味でも重要な意味を持ちます。
不動産の売却・名義変更ができなくなるケース
実家の売却や名義変更も、判断能力があってはじめて有効な契約行為として成立します。
「実家を売って介護施設の費用に充てたい」と考えていても、親の判断能力が低下した後では、親自身が売買契約の当事者になることができません。
このとき代わりに手続きを進めるには、やはり成年後見制度を利用して後見人を選任する必要があります。ただし後見人は家庭裁判所の監督下で「本人の利益」を最優先に判断するため、家族が望むタイミングや方法で自由に売却できるとは限りません。
結果として、資産はあるのに動かせない「凍結状態」が長引き、介護費用の捻出に困る家庭も出てきています。
生前贈与や遺言作成も判断能力があってこそ有効になる
相続対策としてよく挙げられる生前贈与(せいぜんぞうよ。生きているうちに財産を子や孫などに贈ること)や遺言書の作成も、契約や意思表示である以上、本人に判断能力があることが前提です。
判断能力が低下した状態で作成された遺言書は、後から「本人の意思によるものか怪しい」と相続人同士で意見の違いが生じる可能性があり、無効になるおそれもあります。
つまり、認知症の症状が進んでからでは、相続対策の選択肢そのものが次々と閉ざされていくのです。だからこそ、判断能力がしっかりしているうちに「誰に何を任せるか」を決めておく備えが必要になります。その代表的な方法のひとつが、次の章で解説する任意後見です。
任意後見という備え方|「元気なうちにしか結べない」制度の本質

前章で見たように、判断能力が低下してからでは打てる手が限られてしまいます。そこで有効になるのが任意後見(にんいこうけん)という制度です。
任意後見とは、本人がまだ判断能力を十分に持っているうちに、将来判断能力が低下した場合に備えて、自分で選んだ人にどのような支援をしてもらうかをあらかじめ契約で決めておく仕組みです。
「後見」という言葉から、判断能力が失われた後に使う制度だと誤解されがちですが、実際には正反対で、元気なうちにしか契約できない点に本質があります。ここでは任意後見の仕組みを、相続対策という視点から整理します。
任意後見は本人が「まだ決められるうち」に結ぶ契約である
任意後見契約は、公証役場で公正証書(こうせいしょうしょ。公証人が作成する法的効力の強い文書)として作成することが法律で定められています。
この契約を結べるのは、本人が契約の内容を理解し、自分の意思で判断できる状態にあるときに限られます。すでに認知症の診断を受け、判断能力が失われた後では、この契約自体を結ぶことができません。
契約の締結タイミングについては任意後見の公正証書はいつ作る?作成タイミングと準備の進め方を解説で具体的な進め方を紹介していますので、あわせてご覧ください。
「まだ早いのでは」と感じるタイミングこそが、実は契約を結べる最後のチャンスに近づいている可能性があるという点は、家族としてぜひ意識しておきたいところです。
法定後見との決定的な違い|後見人を誰が選ぶか
判断能力の低下に備える制度には、任意後見のほかに法定後見(ほうていこうけん)もあります。両者の最も大きな違いは、後見人を誰が選ぶかという点です。
法定後見は、すでに判断能力が低下した後に家庭裁判所へ申し立てを行い、裁判所が後見人を選任する仕組みです。選ばれるのは弁護士や司法書士などの専門職であることが多く、必ずしも家族が後見人になれるとは限りません。
一方、任意後見では本人が元気なうちに「この人に任せたい」という相手を自分で選び、契約で定めておくことができます。息子や娘に任せたいという親の希望を、法的な効力を持つ形で残せるのが任意後見の大きな特徴です。両制度の違いや選び方については任意後見と法定後見、どちらが向いている?選び方のポイントでさらに詳しく整理していますので、あわせて参考にしてください。
任意後見契約が実際に効力を持つタイミング
任意後見契約を結んだからといって、その日から任意後見人が財産管理を始めるわけではありません。契約はあくまで「将来に備えた予約」のようなもので、実際に効力が発生するのは、本人の判断能力が低下し、家庭裁判所によって任意後見監督人(にんいこうけんかんとくにん。任意後見人の仕事を監督する立場の人)が選任されたときです。
この仕組みにより、任意後見人が契約内容から外れた行動をとらないよう、第三者の目でチェックする体制が整っています。
すでに任意後見契約を結んでいる方が実際に認知症になった場合、どのような手順で効力が発生するのかについては認知症になったら任意後見はどう動く?申立てから開始までの道筋で詳しく解説しています。
任意後見人には「できないこと」もある
任意後見は万能の制度ではありません。任意後見人が担うのは主に財産管理や生活・医療に関する契約の代理であり、契約書で定めた範囲を超える行為はできない仕組みになっています。
また、任意後見人には法定後見のような「取消権(本人が結んだ不利な契約を後から取り消す権利)」がないため、悪質な契約から本人を守る力という点では法定後見に劣る場面もあります。
こうした制約があることを理解したうえで、次章で紹介するほかの対策とあわせて備えておくことが、相続で困らないための現実的な進め方といえます。
任意後見だけでは防げない相続リスクと組み合わせるべき対策

任意後見は「判断能力が低下した後の財産管理」を支える心強い制度ですが、これだけで相続に関するすべての不安が解消されるわけではありません。
任意後見はあくまで本人の生活と財産を守るための仕組みであり、亡くなった後の遺産の分け方までは決められないという限界があります。ここでは、任意後見と組み合わせて検討したい代表的な対策を紹介します。
任意後見は「財産管理」であって「遺産の分け方」は決められない
任意後見人の役割は、本人が生きている間の財産管理や身の回りの契約を代わりに行うことです。
そのため、本人がお亡くなりになった後、誰にどの財産を渡すかという遺産分割の内容には関与しません。任意後見契約は本人の死亡と同時に終了し、その先は通常の相続手続きに引き継がれます。
「任意後見契約さえ結んでおけば相続の心配はいらない」と考えてしまうと、実際に相続が始まったときに想定外の手続きが必要になることもあります。財産管理の備えと、遺産の分け方の備えは、別のものとして考えておく必要があるのです。
遺言書と組み合わせて初めて相続トラブルを防げる理由
遺産の分け方まで自分の意思で残しておきたい場合には、遺言書の作成が欠かせません。
遺言書があれば、法定相続分(ほうていそうぞくぶん。法律で定められた相続の取り分)とは異なる割合で財産を引き継がせることも可能になり、相続人同士の意見の違いを未然に防ぐ効果が期待できます。
ただし遺言書も、任意後見契約と同じく本人に判断能力があるうちにしか作成できません。
判断能力が低下してから作成された遺言書は、内容が本人の意思によるものかどうかをめぐって、後から相続人の間で意見の違いが生じる可能性があります。任意後見契約を結ぶタイミングにあわせて、遺言書の作成もセットで検討しておくと安心です。
生前贈与を検討するなら判断能力があるうちに
生前贈与も、相続税の負担を軽くしたり、特定の家族に確実に財産を渡したりする手段として活用されています。
ただし贈与も契約の一種であるため、贈与する側とされる側の双方に判断能力があることが前提です。親の判断能力が低下してからでは、贈与契約そのものを結ぶことができません。
「そろそろ生前贈与も考えておきたい」と感じたタイミングは、任意後見契約や遺言書の準備を進めるタイミングとも重なります。まとめて専門家に相談することで、手続きの重複や漏れを防ぎやすくなります。
家族信託という選択肢との使い分け
財産管理の備えとしては、任意後見のほかに家族信託(かぞくしんたく。信頼できる家族に財産の管理・運用を託す契約)という方法もあります。
家族信託は家庭裁判所の監督を受けずに、契約で定めた範囲内であれば比較的柔軟に財産を動かせる点が特徴です。不動産の活用や賃貸経営など、能動的な財産管理をしたい場合に選ばれることがあります。
一方で、身上監護(しんじょうかんご。介護や医療に関する契約を代理する役割)については家族信託ではカバーできず、任意後見の領域になります。
どちらか一方を選ぶというより、財産の性質や家族の状況に応じて両方を組み合わせる家庭も増えています。任意後見と家族信託の違いについては任意後見と家族信託はどう違う?特徴と向いているケースを比べてみたで詳しく比較していますので、あわせてご覧ください。
親に任意後見の話をどう切り出すか|家族が動くべきタイミング

制度の仕組みを理解しても、実際に親へどう切り出せばよいか迷う方は少なくありません。
「まだ元気なのに後見の話をするのは失礼ではないか」という遠慮から、話し合いを先延ばしにしてしまう家庭もよく見られます。ここでは、親子で任意後見について話し合うための進め方を紹介します。
「まだ早い」と思っている親への伝え方
任意後見の話を切り出すと、「自分はまだボケていない」と受け取られ、気分を害してしまうこともあります。
大切なのは、任意後見が「判断能力が衰えた人のための制度」ではなく「元気なうちに自分の意思を残しておくための制度」であると伝えることです。
たとえば、「もしものときに、お母さんの希望通りに財産を管理できる人を、お母さん自身で決めておけるんだよ」というように、本人の自己決定権を尊重する制度であることを軸に説明すると、前向きに受け止めてもらいやすくなります。
終活や資産整理のテーマと合わせて話すことで、自然な流れの中で切り出しやすくなる家庭も多いようです。
話し合うべきベストなタイミングとは
任意後見契約は判断能力があるうちにしか結べないため、迷っている時間そのものがリスクになります。
目安としては、親が70代に入ったタイミングや、健康診断で軽度の物忘れを指摘されたタイミングなど、「まだ十分に判断できる今のうち」に話を始めておくのが望ましいといえます。
年末年始やお盆など、家族が顔を合わせる機会に合わせて話題にする家庭も少なくありません。
一度で結論を出そうとせず、まずは「そういう制度があるらしい」と情報を共有するところから始め、何度か話し合いを重ねながら本人の意思を確認していく進め方が、無理なく合意形成につながります。
誰を任意後見人に選ぶかで揉めないための進め方
任意後見人を誰にするかは、本人の意思が最優先されるべき事項です。
子どもが複数いる家庭では、「なぜ自分ではなく兄弟が選ばれたのか」といった感情的な行き違いが生じることもあります。
こうした行き違いを防ぐためには、本人が任意後見人を選んだ理由を、ほかの家族にもあらかじめ共有しておくことが有効です。
また、財産管理は任意後見人に、身の回りの世話は別の家族が分担するなど、役割を分けて契約内容を設計することも可能です。家族全員が納得できる形を、本人を中心に据えながら探っていく姿勢が大切になります。
専門家に相談する場合の選び方
任意後見契約の内容設計や公正証書の作成には、法律の専門知識が必要になる場面が多くあります。
司法書士や弁護士など、成年後見制度に詳しい専門家に相談することで、家族だけでは気づきにくい注意点や、契約内容の抜け漏れを防ぐことができます。
相談先を選ぶ際は、成年後見や相続の分野を専門的に扱っているかどうかを確認するとよいでしょう。
複数の専門家に話を聞き、本人や家族との相性も含めて比較検討することで、長く付き合っていく相手として安心できる選択がしやすくなります。
何も備えないまま認知症になった場合、相続はどうなるか

ここまで任意後見という備え方を中心に紹介してきましたが、最後に「もし何も備えないまま親が認知症になってしまったら、実際にどうなるのか」を整理しておきます。
備えの必要性を具体的にイメージすることで、今できることの優先順位が見えてきます。
法定後見制度を使うことになった場合の制約
任意後見契約を結んでいない状態で親が認知症になった場合、財産管理や相続手続きを進めるためには法定後見制度を利用することになります。
法定後見では後見人を家庭裁判所が選任するため、家族の希望が必ずしも通るとは限りません。専門職が後見人に選ばれた場合、家族が思うようなペースや方法で財産を動かせなくなることもあります。
また、後見人には本人の財産を守る義務があるため、相続税対策のための生前贈与や、投資性の高い資産の売却など、積極的な財産活用が制限される傾向にあります。
「もっと自由に対応できると思っていたのに、後見人がついたことで身動きが取れなくなった」と感じる家族も少なくありません。
家庭裁判所の手続きにかかる時間と費用
法定後見の申し立てから後見人が選任されるまでには、一般的に数か月程度の時間がかかります。
その間、口座凍結や不動産の処分制限といった状態が続くため、介護費用の捻出に困る家庭もあります。
費用面でも、申立てにかかる実費に加えて、専門職が後見人に選ばれた場合には継続的な報酬が本人の財産から支払われることになります。
この報酬は後見が続く限り発生するため、想定より長期にわたる負担になるケースもある点は、あらかじめ理解しておきたいポイントです。
親族間で後見人選任をめぐるトラブルに発展するケース
法定後見では、家族が後見人候補として立候補しても、家庭裁判所の判断で専門職が選ばれることがあります。
これに納得できない家族と、専門職後見人との間で意見の違いが生じ、関係がこじれてしまう事例も見られます。
また、相続人の中に認知症の方がいる状態で相続が発生すると、遺産分割協議のために後見人選任を待つ必要があり、相続税の申告期限に手続きが間に合わなくなるおそれもあります。
この点については成年後見人をつければ安心?認知症の相続人がいる遺産分割の落とし穴でも詳しく取り上げていますので、あわせてご確認ください。
「後悔しても遅い」を避けるために今できること
認知症は進行してから気づいても、そこから任意後見契約や遺言書を作成することはできません。
「もっと早く話しておけばよかった」という後悔は、備えのタイミングを逃したことに起因するケースがほとんどです。
逆に言えば、今この瞬間に親の判断能力があるのであれば、備えを始めるための時間はまだ残されています。
任意後見契約、遺言書、生前贈与など、選択肢が複数ある今のうちに、家族で話し合いを始めることが、将来の相続で困らないための最も確実な一歩になります。
まとめ|親が元気なうちに、任意後見という選択肢を
親の判断能力が低下してからでは、口座の凍結や遺産分割協議の停滞など、相続に関わるさまざまな手続きが動かせなくなってしまいます。
任意後見は、そうした事態を防ぐために、本人が元気なうちにしか結べない備えとして大きな役割を果たします。
ただし任意後見だけで相続のすべてが解決するわけではなく、遺言書や生前贈与、家族信託といった対策と組み合わせて考えることが大切です。
そして何より重要なのは、親子で早めに話し合いを始めることです。よりねこでは、任意後見や相続に関するご相談を承っております。将来への備えについて迷われている方は、お気軽にお問い合わせください。